第2回講演会!~生きる~

埼玉福祉専門学校での講演 jive宇都宮(笠原健一)

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jive宇都宮(笠原健一) の講演

■PDFファイル形式:[saitamafukushi_jive.pdf(234KB)]

 

みなさん、はじめまして。笠原健一、と申します。インターネット上では、「jive宇都宮」と名乗っています。

本日、このような場を設けてくださった、金福漢先生と、埼玉福祉専門学校の皆様に篤く御礼申し上げます。ありがとうございます。

金先生とは、仕事の関係で何度かお会いしたことがあります。先生がなさっているお仕事の現場を訪問させていただいたこともありますし、その他、いろいろなお話をうかがっています。

皆様のほうが、ご存じかとは、思いますが、僕は、先生の精力的なご活動を、ずっと尊敬いたしておりました。今回、先生から、このような機会をいただくことができて、とても嬉しいです。

また、皆様から、事前に、たくさんのご質問をいただきました。これも、とても嬉しかったです。ありがとうございます。今日の話の中では、いただいたご質問すべてにお答えすることはできないので、「余命宣告.com」のホームページに、ひとつひとつ、僕なりの回答を書きました。もしよろしかったら、ご覧になってください。

はじめに、サークル「☆☆☆☆☆」について、話したいと思います。 先ほど、「そら」さんのほうからのメンバーの紹介がありました。「そら」さんも、メンバーのひとりです。

サークルを結成したのは、昨年の10月頃だったように記憶しています。「何かやりたい、でも、ひとりではできない」という仲間が集まって活動しています。メンバーは、それぞれ、さまざまな病気や、“障がい”と共に生活しています。

今、便宜的に“障がい”という言葉を使いました。でも、僕は、“障害者”であるとか“健常者”といった言葉が、苦手です。

たとえば、「小学生」という名前の「小学生」がいないように、“障害者”という名の“障害者”は、どこにも存在しないと、僕は思います。皆、それぞれ、具体的な名前を持った、ひとりの人間だと思います。

最初に自己紹介をした、Aさん、サークルを作った当時は、ずいぶん喧嘩をしました。正直、はっきりしないところがあって、僕は、いつもイライラしていました。

でも、それは、決して、Aさんの歩行が不安定だから、イライラしたということではありません。友人として、仲間として、一緒に仕事をしたり、意見をぶつけ合っていったりしていく中で、ときには、衝突があった、というだけのことです。

Aさんは、とても、イイやつです。今となっては、僕の大切な親友です。僕自身の病気が進行していくにつれ、僕は最近、少し弱気になっているのですが、今では逆に、Aさんに、悩みや、愚痴を聴いてもらったりしています。とても感謝しています。Aさん、いつもありがとう。

Cさんは、車椅子に乗って生活しています。Cさんは、太鼓のバチのような棒を使って、ひとつずつ、キーボードを打ち、小説や論文を書いたり、メールを書いたりしています。その労力がどのくらいのものなのか、想像することしかできないけれど、それを想像したとき、僕は、いつも、彼はすごいな、と尊敬しています。

僕の考えや、活動について、メールで、いろいろな意見を寄せてくれます。彼の歩んできた道や、物の考え方は、とても示唆に富んでいるので、勉強になります。Cさん、いつも、ありがとう。

実際に会ってCさんと話すとき、もし、そこに椅子が無かったら、僕は、腰を落とし、彼と目線を合わせます。人と話をするのだから、当り前のことです。特別な意味はありません。

Cさんに立って話を聞いてください、というのは、現実問題として無理なのであって、たまたま、僕はこうして、自分の足で歩いたり、しゃがんだりすることができるのだから、姿勢を変えることのできる僕が、彼に目線を合わせている、それだけです。

まぁ、そこには、もちろん、いろいろと微妙な問題が含まれていると思います。

たとえば、の話ですが、たとえば、誰かが、電車の中で、ご年配のかたに、席を譲ろうとしたときに、「わたしは、まだまだ、年寄りなんかじゃない」という反応を示されてしまうような場合です。

正直、僕は、「余命宣告.com」をやっているくらいなので、自分自身が「お年寄り」には到底なれそうにもないのですが、そういう話を聞くと、僕は、「別に、好意で言ってくれてんだから、座っちゃえばいいじゃんよー」と思います。

そこで、「ありがとうございます」って素直に言えば、どんなに車内が、いや、もっと大きく言えば、社会が明るくなるだろう、って思います。

でも、「席を譲られて拒む人」は、それができない。プライドなのか自尊心なのか、僕には分からないけれど、いずれにせよ、はっきりしているのは、「お年寄り」と「そうじゃない人」の間に線を引っ張って、「お年寄り」のほうに対し、偏見に満ちた差別心を持っているとことです。

生き続けていれば、自分もいつかは、「お年寄り」になるのに、そういう考え方って、想像力が不足していて、すごく寂しいし、ギスギスしているな、と思います。

僕は、いちおう「☆☆☆☆☆」のリーダーなのですが、活動の中で、いつも、心に留め置いていることがあります。それは、『配慮はするけれど、手加減はしない』という自分自身の姿勢です。

Aさんは、コンピュータの操作が得意です。だから、この1年間で、Aさんには、ずいぶんたくさんのコンピュータに関する知識を学んでもらいました。今では、Aさんは、「☆☆☆☆☆」の会計を担当し、ホームページの更新作業もしてくれるようになりました。

僕は、長時間コンピュータの画面に向かうと、目が疲れてけいれん発作を起こしてしまうので、彼の存在に、とても助けられています。

サークルを作ったころ、Aさんは、よく、仕事を投げ出したり、勉強をサボったりしました。そのとき、僕は、本気で怒りました。

Aさんは、たしかに、指の動きの関係で、キーボードを打つことには、多少時間がかかるけれど、思考の部分は、まったく問題がありません。むしろ、脳に腫瘍があって、日常的にてんかん発作を起こしている僕のほうが、よっぽど、思考能力には問題があります。

「☆☆☆☆☆」は、お互いが、足りないところを補って、仕事をしていこう、というチームです。だから、Aさんの力が必要でした。

Aさんとは、ずいぶん喧嘩をしたけれど、今、こうして彼が、さまざまな壁を乗り越えて、衰えつつある僕の代わりに、いろいろな仕事をしてくれることが、ほんとうに嬉しいし、助かっています。Aさん、ほんとうに、いつもありがとう。

もちろん、Aさんが坂道を歩くときは、手で支えます。転びそうになったら、からだで受け止めます。Aさんは、歩行が不安定なのだから、今のところ安定して歩くことのできる僕が、それを支えるのは、当り前のことだと思っています。

2番目に挨拶をしたBさんも「☆☆☆☆☆」の大切な仲間です。彼女は、いつも穏やかで、周りに気を遣い、僕のせいで、どうしてもピリピリした空気になってしまう、「☆☆☆☆☆」の会議を和ませてくれます。Bさん、いつもありがとう。

活動を進めていくうちに、Bさんには、絵を描く才能があることが分かりました。レジュメの裏面をご覧ください。今、コンピュータを使ったイラスト作成に取り組んでいます。

先日、Bさんに話を聴いたのですが、彼女はこの「イラスト作成」という作業に、とても、やりがいを感じているそうです。 僕は、その話を聞いて、嬉しく思いました。彼女の技術は、毎週、確実に進歩しています。

コンピュータの操作の習得にも、意欲的です。 Bさんは、からだの右側が、思うように動きません。僕自身、大きなてんかん発作のたびに、からだのまひを体験しているので、よく分かるのですが、感覚の弱くなっているほうから、急に手や物を出されたりすると、とてもびっくりします。

Bさんには、コンピュータの操作を教えているので、どうしても、彼女の前に、手を出して、キーボードやマウスを操作しなくていけない場面があります。

だから、僕は、必ず、「Bさん、ちょっと、マウスを貸してくれる?」とか「ちょっと前に手を出すね」というように、事前に声をかけています。彼女が気付いているかどうかは分からないけれど、大切な友人であるBさんへの、僕なりの誠意です。

今日は残念ながら来られなかったのですが、「☆☆☆☆☆」には、他にもメンバーがいます。僕は、すぐ、誰とでもぶつかってしまうのですが、みんなの支えのおかげで、なんとか、活動を続けています。

最近は、メンバー同士の連携や交流も深まり、イベントの企画など、いろいろな仕事ができるようになってきました。

僕は、レジュメにもあるとおり、今日の話のテーマを『生きる』とさせていただきました。でも、じゃあ、「生きるとは、これこれこういうことです~」という答えを持っているか、というと、もちろん、そういうわけではありません。

僕は、インターネット上に、ブログやWebサイト、という形で、自分の日々の想いや、考えを書いています。ときどき、こうして、大勢のかたの前でお話する機会をいただくこともあります。

「何を書こうかな」「何を話そうかな」といつも悩むのですが、結局、僕は、自分自身のことと、自分が今やっていること、自分とつながってくれている人のことを書いたり、話したりしています。

いつも弱音ばかり書いているのですが、世界のどこかの誰かに、「あー、こういう人もいるんだー」って思っていただけたら、いいなぁ、と思って続けています。

僕は、人と人との間には、分かり合うことのできない、決定的な断絶があると、考えています。

そういうと、なんだか、ちょっと、ひどいことに聞こえてしまうかもしれないのですが、人と人が決して分かり合えない、ということは、裏を返せば、ひとりひとりが、取り替えたり、代替したりすることのできない、かけがえのない存在である、と言い換えることもできると思います。

 「僕は僕、あなたはあなた」という思想は、個人を尊重しているとも言えるし、人と人との間を分断しているとも言えると、考えているのです。

今回、こうしてお話をさせていただくにあたり、金先生に「どんなことを話したらよいのでしょうか」と相談させていただきました。先生は「『人は皆同じなんだ」ということを学生に伝えてほしい』とおっしゃいました。

僕も、もちろん、そう思います。「人は皆同じ」です。金先生のお話が無くても、僕は、この場で、そう発言したと思います。

でも、「人は皆同じ」って、考え方によっては、嘘ですよね。

だって、「僕」と「あなた」は、違うもん。金先生だって、もちろん、そのことは承知の上でおっしゃっておられるのだと思います。それでも、「人は皆同じ」だと、僕は、ここで言いたいと思います。「人は皆違うけれど、だけど、皆同じなのだ」と考えます。

「違うけど、同じ」というのは、何だか変な感じもしますが、いつどこでどうなるか分からない、不安定な運命を背負った人間同士のことなんだから、理屈で割り切れないのは当然だと思います。

それよりもなによりも、僕は、誰かを思い遣ったり、気遣ったり、愛したりする力、心が大切だと思います。「想像力」そして「共感」する力が、人と人の断絶を乗り越え、つながっていく力になると思います。

これから自分のことを話しますが、僕はこうして人前で話す機会をいただくたびに、いつも思います。いったい、自分は何の権利があって、偉そうに、人前で、「生きる」ということについて語ることができるのか、いつも考えます。

他者に対する、「想像力」、「共感」する力が大切だ、と僕は、先ほど、主張しました。だから、僕も想像します。

事前に書面で、皆様からご質問をいただきました。ひとつひとつのお言葉を、その筆跡やお名前も含め、丁寧に拝見いたしました。金先生からも、皆様のことを、いろいろとうかがいました。埼玉福祉専門学校様のホームページを見て、どのような学科があるのか、卒業後は、どのような進路を選ぶかた多いのか、など、情報を集めました。

そして、今、こうして皆様の前に立って、僕は、再び、いろいろ考えます。  きっと、みんな、いろいろ、あるんだろうなぁ、と思います。楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと、辛いこと、あるんだろうなぁ、と思います。

たとえば、病気、ということひとつとってみても、ご自身が、今は、健康であられても、ご家族や、ご友人や、大切な人がご病気で苦しんでおられる方が、きっとおられると思います。

だから、僕は「自分だけが苦しい苦しい」ということを、今日、ここに言いに来たわけではありません。配慮の足りないところがあるかもしれないけれど、僕は、こうして、皆様のお顔を拝見しながら、その向こう側にあるものを、可能な限り想像し、想いを馳せながら、自分の話をしたいと思います。

抽象的な話が続いてしまったので、具体的な話をします。

僕自身のてんかん発作の話です。てんかん発作、といっても、もちろん、いろいろな形があります。あくまでも、僕の場合です。

12月3日、2週間前の水曜日の午後3時半、僕は、ボランティア活動から帰宅し、家の布団で休んでいました。

疲れたときは頭を冷やすと良いので、アイス枕で、頭部を冷やしていました。急に発作の「前兆」を感じました。頭部を取り巻く空間が、歪む感じです。

最初の揺れの感じから、『大きな発作かもしれない』と判断したので、右手で、携帯電話の非常ボタンを押しました。現在位置が家族に伝わる仕組みになっています。

ボタンを押す判断をすぐにしたのは、正解でした。けいれんは、たいてい、左の口元から始まり、顔全体、左手、左足、そして全身へと広がるのですが、そのときは、一気に右手も使えなくなりました。

からだを右に向けていたので、携帯電話の画面に「現在位置送信」の表示が出ているのが見えました。 次の瞬間、からだが、左側に引っ張られました。

息を止めて、脱水機の中に頭を突っ込まれた感じです。左手に、何か、しびれる薬を流し込まれたような感覚がして、左手の指が、歪み、左腕が、外側にひっぱられます。

頭はガクガクしていますが、僕はちょうど、自分の頭、という球体の中から、2つの穴を通して、外側を覗いているような状況なので、自由に視線を動かすことはできません。

からだの感覚は、だんだん無くなっていくのですが、からだがバタバタとけいれんするときに、床や布団を打つので、その音で、自分が今、どのくらいけいれんしているのかが分かります。

意識をそのまま失うこともあるのですが、ほとんどの場合、最後まで、意識がはっきりしているので、とても怖いし、苦しいです。断続的に2時間半続いたこともあります。

けいれんが止まったあとは、からだが、まひしていて動きません。少し回復するのを待って、右手だけで、床を這って、薬と水を飲みます。そのときは、手のまひが強くて、薬を袋から出すことができませんでした。

最初、病名の告知を受けたとき、医師から、はっきりと「現代医学では治らない病気です」と告知されました。

腫瘍が見つかったときは、ショックで動揺しましたが、検査の末、病名を告知されたときは、「これは、残りの人生をどう生きるか」という「Quality of Life」の問題なのだ、と自分の中で、スイッチが切り替わるのを感じることができました。

手術をして、放射線治療を受けて、重積けいれん発作を起こして、また入院して、ようやく退院、という頃には、僕の心は決まっていたので、医師に積極的に、今後について、詳細を告知して欲しい、と頼みました。

2006年8月の段階での医師の話では、「発作はこれからどんどん増える可能性が高い。再発は、これまでにない大きな発作を伴うだろう。再発したら、左半身のまひは覚悟してほしい。発作が多いから、再発後、意志の疎通ができるかどうかは分からない。やりたいことがあるのなら、まずは、2~3年計画で取り組んだほうがいい。」と言われました。

どんなに頑張っても1桁の年数です。「死ぬまで、“ちょっと”苦しいよ」とおっしゃった先生の目は涙ぐんでいました。

今、2008年の12月です。再発はしていないけれど、発作が着々と増えています。2006年8月からカウントすると、2年と4か月が経ったことになります。

しばらくは家でじっとしていたのですが、からだを使う仕事はもう無理だと思ったので、布団の上でコンピュータの勉強をし、ブログを書き始め、ボランティア活動を始め、結婚して、ホームページを作る仕事をいただくようになり、その他、コンピュータ関係のアルバイトをいただくようになり、「☆☆☆☆☆」を結成し、ブログを通じて出会った同じ病気の「クロロ96さん」とWebサイト「余命宣告.com」を立ち上げ、第1回の講演会を行って、僕は事務のアルバイトの仕事をいただくようになり、親友の「クロロ」さんが星になってしまい、落ち込んでホームページを止めようかと思っていたところに、「そら」さんが入ってくれて、もう1回、講演会をやって、先月、東京でも別の講演会に参加させていただいて、そして、今日、ここに立っています。

今、自分で、この2年を振り返ってみたとき、思うのは、「ああ、やっぱり、僕は、人との出会いに恵まれているなぁ」ということです。

妻はもちろんですが、今のアルバイト先の上司や、あるいは多くの仲間との出会い、家族、友人の支え、すべてがあってこそ、今の僕があります。いつも感謝しています。

僕は弱虫で、臆病です。発作が怖いです。毎回、「ああ、もうこれが再発か」と思います。苦しんで、苦しんで死ぬなんて、嫌です。怖いです。

1日3回は、もう死にたい、と思います。自分で死を選べるうちに死にたい、と思います。 でも、たくさんの人が、僕に手を伸ばしてくれるから、僕を必要としてくれるから、僕は死にません。やれる限り、精一杯生きていこうと思います。

身近な人や、社会の役に立つ仕事をしたい。そして、頑張っている背中を見せることが、僕を支えてくれる、妻や、家族や、友人への恩返しになる、と考えています。

28歳で病気が見つかったとき、僕は、養護学校の教員をしていました。4年間、働いたことになります。今、自分が、こうして、病気や、自分のからだのことと向き合っていけるのは、養護学校で働いていたころの経験があったからこそだよな、と、よく思います。

学習塾で働いて、中学校で働いて、まぁ、そこそこ、自分もやれるかな、なんて思っていたのですが、養護学校に行って、その考えが甘かったことに気付きました。

僕が勤めていた学校には、話せないし、自分で食事を取ることも、動くこともできない子どもたちがたくさんいました。仕事は、食事介助や、オムツの交換や、からだのマッサージなどが、主でした。

目線や、体温や、脈拍や、息づかいから、子どもたちの気持ちを汲み取ろうと、僕は、努力しました。

子どもたちの、てんかん発作も、たくさん見ました。

子どもたちが亡くなって、その葬儀にも、何回も参列しました。ほんとうに悲しかったです。今でも、子どもたちのことを思い出します。

動けなくても、話さなくても、彼らは、ちゃんと、そこにいました。ひとりひとり、名前を持って、そこに存在していました。人は、人とのつながりの中で、人間になるのだと、思いました。

たとえ、名前を呼んで、振り向かなくても、周りが、彼の存在を認め、人間として扱えば、彼は、立派に、人としての存在意義を持つのだと、思いました。

現に、僕は、養護学校の子どもたちと接していたおかげで、僕は今、自分自身をしっかり見つめることができます。感謝しています。

養護学校でも、もちろん、文化祭などがあるのですが、そのとき、「笠原先生!」と声をかけられたことが何度もありました。かつて中学校で接していた生徒でした。「え、なんでここにいるの?」と聞くと、「わたしの弟がここにいるんだよー、同じ名字でしょ?」と言われました。

僕は、正直、びっくりしました。そんなこと、思いもしなかったからです。社会科の教員として、中学校で、人権だとか、なんだとか、偉そうにいろいろ言っていた自分が、恥ずかしかったです。

人間、事故にでもあえば、いつからだが動かなくなるか分からないのに、堂々と、「働けねぇヤツは生きてる資格ねぇんだ」という大人がいます。と、同時に、弟の車椅子を、優しく押す中学生もいます。

養護学校で、僕は、人に共感することの大切さ、想像力の大切さ、を学びました。生きているだけで、素晴らしいんだ、ということを知りました。

冒頭の話に戻ります。僕は、たとえば、Aさんと話をするとき、Aさんが“障害者”かどうか、をいちいち考えません。そんなこと、どうでもいいからです。

言葉を持たない、動くことができない子どもたちと接していたときも、同様です。この子が“障害児”かどうか、なんて、気にしませんでした。その子がどれだけの人に愛されているか、とか、今日は朝から泣いているけれど、お腹が空いているんだろうか、とか、そういうことのほうが、よっぽど重要でした。

もちろん、社会生活を営む上での、区別は必要です。

でも、相手がいわゆる障害者手帳を持っていたからといって、「“障害者”さん、こんにちは」とあいさつはしないと思います。やっぱり、そこには、ちゃんと名前があって、そこから広がるつながりがあると思います。

“障害者”“健常者”を必要以上に分けて考えることより、相手を思い遣り、その人、ひとりひとりの喜びや悲しみに、心を寄せることのほうが、現実的には、ずっと有効だと、僕は考えています。

そういう意味で、「人は皆、同じ」なのだと思います。

長くなりました。以上です。

もう二度と、教壇に立つことは無いと思っていました。病気が見つかったとき、病気になってしまったことよりも、教育の世界から離れなければならないことのほうが、よっぽどつらかったです。

だから、今日は、とても嬉しいです。生きていて良かったです。これからも、感謝の気持ちを忘れず、今を大切に、希望を持って歩んで行こうと思います。

皆様のご活躍を、心から願っています。今日は、ほんとうに、ありがとうございました。

(2008.12.16 jive宇都宮[笠原健一])

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