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年をとることについて(jive宇都宮)

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病を得てから、僕は、「年をとる」ということが、よく分からなくなった。

理屈ではなくて、本音で感じていることが、ふたつある。

まず、ひとつは、「28歳以下の人は死んではいけない」と感じるようになったことだ。僕は、28歳のときに発症した。なんだか、そこで、ひとつ、区切りがついたような気がして、残りの人生は、あくまでも、“おまけの時間”のように感じて生きている。

「長生き」という概念を見失ってしまった僕にとって、ひとつの基準が、この「28」という数字なのだと思う。

僕は28年、生きることができた。そのことに満足しているし、感謝している。僕は極めて恵まれた28年間を過ごした。

だから、病院などで、自分より若い人が、苦しそうにしているのを見ると、胸が痛くなる。もし、話す機会があったとしても、僕は、彼らに、何と声をかけてよいのか分からない。

『あなたは、28歳まで、病気にならずに、生きたんでしょ?』と言われてしまったら、何も言えない、と思うからだ。

理屈で考えると、おかしい部分もあるのだけれど、僕はとにかく、自分より若い世代が病気になったり、不幸にして亡くなってしまうことに、これまで以上に心を痛めるようになった。

逆に、もっと年齢が上のかたについては、不思議な感覚を抱くようになった。

僕のかつて働いていた職場は、50歳前後の先輩が多かった。とてもお世話になったし、たくさんのことを教えていただいた。

当時、僕は、いつか、自分もそうなるんだ、と思っていた。人生の先輩から多くを学んで、自分もまた、それを、後から続く人に伝えていくんだ、と考えていた。

僕は、ビジネス書を読むのが趣味だったので、その本に書いてあった通り、1年後の自分、5年後の自分、10年後の自分、を描き、折りに触れて軌道修正をしながら、今の自分に必要な勉強や、仕事をしていた。

でも、今や、たとえば、80歳、という年齢は、僕にとって、ちょっと想像の出来ない領域だ。今、31歳なので、あと10年頑張ったとしても、やっと41歳だ。この調子で発作が続いていけば、運良く病気の進行が遅れたとしても、かなり、身体的にも精神的も弱ってしまっているだろう、と思う。

50歳、という年齢が分からない。直感的に表現するなら、「50代はフィクション」だ。

自分がそこに到達できる可能性が極めて低い、と知った今、僕は、年齢を基準とした階層構造に、いったいどういう意味があるのか、分からなくなってしまった。

たしかに、年上の人は敬うべきだ、というのは分かる。頭では分かっているけれど、自分が、50歳という年齢につながっていないのに、年齢だけを基準にして相手を敬うのは、難しくなっている。

よく、小さな子が亡くなってしまったとき、「この子の生き方から多くを学びました」と表現しているのを見かける。

もし、そうなら、生きる、ということは、たんじゅんに長さの問題ではないのかもしれない、と思う。

「生」の裏側に「死」があるのなら、先に亡くなった人は、『人生の先輩』になるのかもしれない、と感じている。

もちろん、僕が、50歳の人より、偉い、ということを言いたいわけではない。

ただ、僕は、人と相対するときに、年齢による先入観よりも、その人自身の『今』をより大切にするようになった。

誰だって、いつ、何があるか分からない。今、自分の前にいる相手は、その瞬間、それが全てだ。

相手から長い時間を生きて、そこから多くの物を得て、成熟した人柄であったとしても、僕にとって大切なので、時間ではなくて、今、その人がそこにいる、ということだ。

相手が、今、どんな顔をしているのか。どんなことを語っているのか、それが、僕の判断基準になりつつある。

正直、それが良いことなのか、あまり好ましくないことなのか、僕には分からない。

でも、今日は、自分が率直に感じていることを書いてみた。

(jive宇都宮 2009.6.1)

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