第2回講演会!~生きる~

LinkedLife異業種交流会 笠原健一(jive) の公演[後半]

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笠原健一(jive宇都宮) の講演

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養護学校で働いていた頃、同じ、臨時採用教員でT先輩という人がいました。出会ったとき、僕は24歳で、T先輩は28歳でした。先輩の生き方は、とてもカッコよくて、子どもたちへの接し方も、素晴らしいものでした。

僕は、どんな仕事をしているときでも、「目標とする人」を見つけて、そのやり方を真似する、という学習方法をとっていました。僕は、28歳という年齢を、自分の人生の転換点と位置づけ、そのときまでに、T先輩のようになろう、と心に決めました。

養護学校で働いていた頃、僕のイライラは頂点に達していました。下痢を繰り返しながら働くことに、もう、疲れていました。誰に相談しても、「それは心の持ちようだよ」と言われてしまい、結局は、自分の弱さを再認識させられる日々でした。

6畳一間のアパートは、ロクに片付けもしなかったため、足の踏み場もないくらいに、散らかっていました。当時の僕の心、そのものでした。

A4サイズのバインダーにコピー用紙を挟み、そこに、28歳までにやるべきことを書きだしました。思いついたら、リストに加えて、テレビの横に、しまっていました。 僕は変わりたかった。強くなりたかった。だから、とにかく、前へ、前へ。僕は、何かに、駆り立てられるかのように、さまざまな分野の本を読み、からだを鍛え、そして、ただ、ひたすら苛立っていました。

当時、付き合っていた女性に言われました。「いつかなりたい、とかじゃなくてさ、なりたいって思ったら、今、この次の瞬間から、なれるんだよ」ほんとうに、優しくて、いい子だったのに、僕は、その子を罵倒し、苛立ちをぶつけ続けました。そして、彼女は、去っていきました。

今から、あのときイライラしていたのは、脳腫瘍のせいだったんだよ、と言い訳する機会もないし、仮にしたとしても、どうしようもありません。その他にも、僕は、多くの人間関係をぶち壊しながら、ひたすら、何かに向かって突き進んでいました。  そうして、運命の2005年12月10日を迎えることになりました。

長くなりました。僕の27年間を、お話しました。実家で荷物を整理していたら26歳の頃のメモが出てきました。「苦しい、なぜ、こんなにイライラするのか。左手が痛い。右手の薬指と小指が痛い、煙草の吸いすぎなんだろうか」

手の痛みは、今の症状と一緒です。もう、そのとき既に、始まっていたのです。今でも、発作の前後は、お腹の調子が悪くなります。ちゃんと、線はつながっていたのです。でも、今、それを知ったところで、失った過去を取り戻すことは、もう、できません。  

自分の過去のストーリーについて話しました。聞いていただいて、お分かりのとおり、ぜんぜん、カッコ良くない、ただただ、トイレにこもって、電車の中で、下痢を漏らして、悩んでいた、どうしようもない男の27年間です。苦労と言ったって、全然たいしたこと、ありません。世の中には、世界には、もっともっと、たいへんな人生を歩んでいる人がたくさんおられます。  

僕の27年間の中には、楽しいこと、嬉しいことも、もっともっとたくさんあったのですが、今日は、敢えて、苦しかったこと、ダメだったこと、病気につながっていたこと、を中心に話しました。

恥を忍んで、自分のことを話したのには、理由があります。僕は、世の中には、いわゆる、“サクセスストーリー”が多すぎると思うのです。  「頑張れば報われる」、「努力は必ず実る」、というのは、個人のレベルでは、有効な言葉かもしれません。

でも、実際問題として、世の中には、頑張っても頑張ってもダメ、という人がたくさんいると思います。 僕は教育現場で働いていたので、特にそう思うのかもしれませんが、「頑張れば報われる」というようなことが、あまりにも称賛され過ぎると、「頑張ってもどうしようもない人」は、それこそ、本当にどうしようもなくなってしまうと思います。

自分が何かを頑張って、その結果、何かが上手くいったのは、それは素晴らしいことだと思うのですが、だからと言って、それを誰かに押し付けることは、望ましいことではないと僕は考えます。

相手が弱い立場の人だったら、その人を追い詰めるだけです。 僕は、今、頑張っても頑張っても、というか、頑張ること自体で発作を増やしてしまうような、そんな生活を送っています。だからこそ、もし、悩んでいる人がいるのなら、僕は、一緒にその苦しみに共感し、そして、まず、「あなたはあなたのままでいい。存在してるというだけで、素晴らしいことなんだ。」と言葉をかけたい、と考えています。  

必要なのは、一般化されたサクセスストーリーでもなく、感傷で終わるだけのストーリーではなく、「希望」を含んだ物語だと、思います。僕は、グリオーマという、現時点では、絶望の病に立ち向かっています。でも、真の希望は絶望からこそ始まると、僕は信じています。生きること自体が、希望なのです。  

ここから先は、脳に腫瘍が発見されてから、そして、現在に至るまでのことについて、話したいと思います。

自らの転換点となるはずだった、28歳の誕生日、2005年12月10日のことです。目覚めると、布団が血だらけになっていました。舌を噛んでいたのです。4日後の深夜、再び、今度は、大きく切れてしまうほど、舌を噛み、さすがにこれはおかしいと病院にいきました。

ネクタイにスーツ姿、自分で車を運転して行きました。職場には、「病院に行くので遅れます」と電話を入れました。すぐにまた、元の日常が戻ってくるはずだったのです。  

しかし、CT検査の結果、すぐに大きな病院に行った方がいい、ということになり、そのまま、紹介された病院に向かいました。医師から、「ご家族を呼んでください」と言われたときは、たいへんなことになってしまった、と思いました。病院の、緑色の公衆電話を、僕は、今でも覚えています。

受話器にしがみつくようにして、実家に電話をかけました。怖くて、泣きながら、すぐに来てほしい、と話をしました。びっくりするくらい、両親が、すぐに来てくれました。僕は、ほんとうに、心の底から、両親に感謝しました。  

家を飛び出して好き勝手なことをしていた僕は、もうそろそろ親孝行しなくちゃなぁ、と思っていました。28歳になったら、両親に温泉旅行でもプレゼントしようかなぁ、と考えていました。手帳に、家族の誕生日と、父の日と、母の日を書き込んでいました。

でも、そんな夢は、あっという間に吹き飛んでしまいました。その後の入院や、手術に必要なお金を用意できるはずもなく、結局、また、精神的にだけではなく、経済的にも、両親に負担をかける結果となってしまいました。  

後にグリオーマの発症率は、3万分の1だ、という話を聴きました。でも、僕は、「どうして僕が病気になったんだろう」とは感じませんでした。養護学校で、重いしょうがいと共に生きる子どもたちを見ていたからだと思います。いつか、それが、自分に起こっても、不思議ではない、と考えていました。  

でも、「どうして28歳の誕生日なんだろう」とは、思いました。全くの偶然だとは思うのですが、それにしては、出来すぎた話だ、と思いました。僕は、やっぱり、間違っていたのです。「なりたいものがあれば、今、次の瞬間からなれる」、そう、僕は、未来ではなく、「今」をもっと大切に丁寧に生きるべきだったのです。 

僕は、自分の気持ちを、そのときに、すぐ伝えるようになりました。いつ、何が起こるか分からないからです。特に、ありがとうございます、という感謝の気持ちを、率直に伝えよう、と心がけるようになりました。「大切なことは、今、伝えよう」それが、僕の座右の銘になりました。

勤務していた職場の上司のご厚意で、卒業式には参加することができました。僕は、そのとき、高校3年生のクラスを担当していたのです。嬉しかったです。  

4月になって手術をし、腫瘍の7割を取り除きました。グリオーマという腫瘍は、周辺の組織に、染み込むように増えていくので、僕の場合、運動野も含めて取ってしまうと、その場で、左半身が麻痺してしまうので、全てを取ることはできませんでした。

仮に、周辺の組織を腫瘍とともに丸ごと取ったとしても、いずれ、グリオーマの細胞は、また、出現し、再発する、と説明を受けました。病気を治す、というよりは、残りの人生をどう生きるか、Quality of Lifeの問題なのだ、と知りました。  

手術のあと、放射線治療を受け、その間に、重積痙攣発作を起こし入院しました。一時的に体が麻痺し、自分で自分のこともよく分からなくなってしまいました。ようやく退院、というときに、僕は、ここで、自分自身について課せられた“ルール”について、知っておきたいと思い、医師に、より詳細な告知を求めました。2006年8月のことです。

告知の内容をまとめると「再発は、数年のうちに起こる可能性が高い。これまでにない大きな発作を伴うだろう。腫瘍の悪性度も高くなるだろう。再発したら、左半身の麻痺は覚悟してほしい。君の場合は、発作が強いから、再発後に、自分で何かを表現できる状態かどうかは分からない。発作は、これから、増えていくと思う。やりたいことがあるのなら、2、3年計画で取り組んだ方がいい。」ということでした。信頼している先生からのお言葉で、僕は、ここが、自分の新たなスタートラインなのだ、と感じました。  

退院し、実家で静養する日々が続きました。しかし、てんかん発作が頻繁に起き、寝たり起きたりで、なかなか、何かをすることはできませんでした。僕の場合は、再発までは、この、てんかん発作、とどう折り合いをつけていくか、が課題となっています。  

どんな病気や、しょうがいでもそうですが、てんかん発作も、人によって、もちろん、さまざまなパターンがあります。僕の場合、特徴的だ、と言われたのは、「え、そんなことまで覚えているの?」と医師から言われるくらい、発作時に、意識がしっかりしていることが多い、という点です。  

僕は医者ではないので、てんかん発作について、ここで説明するほどの知識はありません。 それよりも、かつて、養護学校の教員として、子どもたちのてんかん発作を見ていた僕としては、てんかん発作時の状況を記憶している、というのは、苦しいけれど、とても興味深い体験です。

僕の場合、発作中のけいれんは口から始まります。左手、左足、そして全身、とけいれんの範囲が広がります。頭を動かすことができないので、自分自身を見ることはできないのですが、からだがけいれんすると、たとえば布団の上にいる場合は、からだがシーツや毛布を擦る音が聞こえるので、「けいれんしてるな」と分かります。

からだだけではなく、目も動かすことができません。でも、意識があるので、見えてはいます。ちょうど、自分の頭、という箱の中に入って、外をのぞいている感覚です。頭の中が、脱水機にかけられたかのように揺れ、呼吸がとても苦しくなります。

まぶたが閉じたり開いたりすると、目の前が暗くなったり明るくなったりします。まぶたが開いているのに、目の前が暗くなった時は、目が裏返って白眼を剥いてしまったときです。そして、心配そうにのぞきこむ、家族の顔が見えます。

僕は、てんかん発作に関して、見る立場から、見られる立場へと変わりました。そして、ただ、見られているのではなくて、見られている自分を、また、内側から見る、という視点も獲得しました。

けいれん発作の様子をビデオに撮影してもらい、自分で自分の発作を見てみました。かなり苦しかったはずなのに、外から見た感じでは、たいした発作に見えないことに、驚きました。この発作の映像は、ホームページで公開しています。

また、僕は、養護学校で、子どもたちと、その保護者、という関係も、見てきました。ここでも、自分と、その親、という関係が生じ、病気やしょうがいを持つ家族のたいへんさ、というものを、客観的に、そして主観的に考える機会を得ました。

当たり前のことなのかも知れないけれど、人間は、関係性の中で、人間になっていくのだ、と思いました。たとえ、言葉が話せなくて、動けなくて、ご飯も食べられなくても、たとえば、「健二くん」と名前を呼んで、みんなが彼のことを健二くんだと認めれば、彼は、立派に一個の人間として、その存在価値を持つのだ、と考えます。

退院して、ぼんやりしていた僕に、たくさんの友だちが、手紙やメールや電話をくれました。養護学校で働いていた頃、ボランティアなどでお世話になっていた施設の社長さんが、「ウチに来て、掃除でも何でもいいから、手伝いに来ない?」と誘ってくださいました。

退院してからも、何回も、大きな発作があって、僕はもう、自分が何もできなくなってしまったことに、絶望していました。荷物を片づけ、箱にまとめ、あとは、遺書でも書こうか、と思っていた頃に、外に出る機会を得ました。

当時のことを、僕は、あまりよく覚えていないのですが、施設にボランティアに行くようになって、また、「笠原さん」と呼ばれるようになって、僕は、自分を取り戻していったような気がします。

教職の仕事には、未練があったけれど、もう、からだを使う仕事は無理なんだ、と思って、コンピュータと、簿記の勉強を始めました。社会に関わっていきたい。そのためには、今までとは、違う能力を身につけて、新しい仕事をしなくては、と気持ちが、外側に向いていったのだと思います。

結局、その施設さんから、コンピュータ関係のアルバイトの仕事をいただくようになり、そのつながりで、別の施設さんからもボランティア活動をさせていただく機会をいただいたり、と、僕は、ほんとうに恵まれた形で、社会に再び、つながっていくことができました。

自分でもびっくりしたのですが、いろいろあって、結婚することもできました。結婚といったって、僕は、ほとんど稼げないし、病状は進む一方です。それでも、そういうことを、全て知った上で、一緒にいたいと、言ってくれる、素晴らしい女性と、新しい生活を始めることができました。

長い長い遺書のつもりで書き始めたブログも、いつの間にか、そこをきっかけに多くの人と出会える場となりました。中でも、「余命宣告.com」 のホームページを一緒に立ち上げた、クロロ96さんとの出会いは、大きいです。

僕と彼は、グリオーマの種類も、また、発作のときの苦しみも、そして、物事に対する価値観も、とてもよく似ていました。彼のほうが、発症が先だったので、残念ながら、病状は進行していました。

「何かを残したい、伝えたい」という彼の気持ちに応えて、チャットで連絡を取り合いながら、「余命宣告.com」のホームページを開設し、「第1回講演会」を開催しました。 「人は死んだら星になるんだよ」と言っていたクロロさんは、講演会からしばらく経ったあと、ほんとうに星になってしまいました。

病気の発症から「1601日」後のことでした。葬儀に参列しました。悲しかったです。同時に、クロロさんと、そのご家族、ご友人の姿が、自分に重なりました。左手がブルブル震えて、手を合わせることができませんでした。

クロロさんは星になってしまったけれど、クロロさんのあったかい人柄は、今も、多くの人の心の中に生きています。今でも、クロロさんのブログやホームページを経由して、「余命宣告.com」のページを見てくださるかたが、たくさんいます。クロロさんの言葉に励まされました、というメールを何通も、もらいました。

クロロさんが星になってしまい、僕は、もう、やる気を失っていたのですが、先ほど、話をした、「そらさん」が仲間に加わってくれました。

第2回の講演会は、そらさんだけではなく、さらに多くの人たちの協力を得て、実現しました。講演会の冒頭、スクリーンにクロロさんの映像が映されました。僕は、胸がいっぱいになりました。ちなみに、僕は、今日で、発症から「1081日」目です。

僕は今、アルバイトと並行して、サークルをつくり、仲間と一緒に活動しています。仲間は、皆、それぞれ、からだに、しょうがいを持っています。仲間が新しいことに挑戦したり、社会参加、自己実現を目指す過程を、頼りないリーダーではあるけれど、支えていくことが、今、僕が一番力を入れていることです。

たくさんの人が、ひとつひとつ、僕に線をつないでくれました。僕は、人と人との関係の中で、自分を取り戻していきました。だから、僕もまた、ひとつの線になって、誰かのために、役に立ちたいと思っています。

人は、ひとりでは決して生きていけないと思います。僕は、これまでの人生の中で、何人かの人から次のような言葉を聞きました。「働けないヤツには生きてる権利なんてないね。俺は事故でからだが動かなくなったら、自分から死を選ぶね。」という言葉です。

その主張の是非について、論じる資格は僕にはないと思うのですが、とりあえず、そういうことをおっしゃるかたは、「自ら死を選ぶこともできないくらい手足が動かなくなる、あるいは、死を選ぶという選択肢が頭に浮かばないくらい、思考力を失ってしまう、あるいは、大切な人がそういう状況になってしまう」という可能性について、考えておいてもいいんじゃないかな、と思います。

また、同時に、たとえば、重いしょうがいを持っていて、障害者年金を受給されて暮らしている人は、たしかにそれは権利なのですが、たんじゅんにそれを権利として主張するのではなくて、実際問題として、朝から夜中まで働いている人が納めた税金や、保険料などで、生活が成立しているのだから、まず、ありがとうの気持ちをもって、そこから、ご自身の人生の充実を考えていけば、より、周囲との摩擦や、誤解の少ない生活が送れるのではないか、と僕は考えています。それは、これから、からだの麻痺が進行していく僕自身についても、当然、言えることです。

不要な対立は、エネルギーの浪費です。物事を何でも、2つに分けて考えることには、無理があると思います。「健康」⇔「病気」、「健常者」⇔「障害者」、あるいは、病気を共に治していくという視点から見れば、「医師」と「患者」もそうかもしれません。そして、「生きること」⇔「死ぬこと」などです。  

人と人、物事と物事のとの関係性の中で、人は、人として存在していくと思います。同時に、冒頭にもお話しましたが、人と人との間には、決して分かち合うことのできない断絶があるのも事実だと思います。でも、分かりあえないからこそ、お互いを思う気持ちが大切なのであり、必ず死ぬという絶望の運命にあるからこそ、そこに希望が生じるのだと思います。

さまざまな人の生き方に触れ、その喜びや悲しみに、想いを馳せていくこと、人と人とをつないでいくこと、どこまでやれるか分からないけれど、僕は、自分自身に常に懐疑の心を向けながら、後悔のないよう、全力を尽くしていきたいと考えています。

自分に与えられた条件の中で、精一杯生きていくこと、今の僕に出来るのはそれだけです。映画館にも行けないし、泣くことも怒ることも、大声で笑うことも、できないけれど、常に発作や再発の恐怖と隣り合わせの生活で、先のことを考えると、怖くて、もう死にたいと思うことも、何度もあるけれど、それでも、僕は、生きて、生きて、生きていこうと思います。

がんばって生きていく姿を見せることが、家族や妻や友人や、支えてくれる多くのかたがたへの恩返しになると、思っています。

先日、講演会の原稿が書けずに、うんうん唸っていたら、親友の吉田くんが電話をくれました。吉田くんいわく「とりあえず、ノリで、あと30年くらい生きちゃったら?」とのことでした。そういう考え方って、いいなーと思いました。救われました。

これからも、いつも希望を胸に、歩んでいきたいと思います。

以上です。ありがとうございました。

(了)

(2008.11.24 笠原 健一[jive宇都宮])

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