第2回講演会!~生きる~

LinkedLife異業種交流会 笠原健一(jive) の講演[前半]

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笠原健一(jive宇都宮) の公演

■PDFファイル形式:[LinkedLife_jive.pdf(296KB)]

 

みなさん、はじめまして。笠原健一、と申します。インターネット上では、jive宇都宮と名乗っています。

本日、このような場を設けてくださった、LinkedLife代表の林さん、スタッフの皆様、そして今日、お集りいただいた皆様に、篤く、御礼申し上げます。ありがとうございます。

はじめに、今、僕が着ているこのTシャツをご覧いただけますでしょうか。どうですか、カッコいいですよね。あ、あの、僕が、じゃなくて、このシャツのデザインが、です。  このシャツをデザインしたのは、flatman.さん、というデザイナーのかたです。

flatman.さんは、スノーボードの事故で、頚椎(けいつい)を損傷してしまい、病院で、10年間、寝たきりの生活を送っておられます。僕のブログから、flatman.さんのブログへのリンクが貼ってあるので、ぜひ、ご覧いただきたいのですが、口だけで、コンピュータを操作して、こうしたイラストを描いておられます。

ここで、想像していただきたいのです。事故で、首から下が動かなくなって、10年間、起き上がることもできなくなってしまった、という状況について、です。

いろいろな考え方、感じ方があると思います。僕も、いろいろ想像し、考えます。実際問題として、事故で、頚椎を損傷する可能性というのは、誰にでも起こり得ることです。

でも、どんなにどんなに考えても、彼の気持ち、立場を、理解することは難しいと思います。彼は、10年間、ロクに、外の景色も見ていないそうです。

これから、約30分ほど、話をさせていただきますが、途中で話が見えなくなってしまわないように、先に、今日の講演のひとつの結論を申し上げます。

人間と人間との間には、決して分かち合えない、決定的な断絶があると思います。じゃあ、分からないから、考えなくてよいか、というと、僕はそうは思いません。

決して、相手の立場を理解することはできない、分かることはできない、ということを、前提にした上で、相手に対して想いを向け、想像すること、共感しようと努力することは、自分にとっても、相手にとっても、また、家族、友人など、自分が大切に思う人たちや、社会全体にとっても有意義で、必要なことである、と僕は考えます。

人前で話をさせていただくとき、僕はいつも思います。いったい、自分は何の権利があって、多くの人を前に、話をすることができるのだろう。

壇上から、今、ここにおられる、ひとりひとりの皆様のお顔を拝見しながら、僕は、皆様、それぞれの人生について考えます。楽しいこと、嬉しいことは、もちろんあると思いますが、それだけではなく、悲しいこと、辛いこと、それぞれに、たくさんの想いがあるのだろうなぁ、と想像します。

ご自身だけでなく、ご家族や、ご友人や、そこにつながる多くのかたに、たくさんの悲しみや、苦しみがあるのだろう、と思います。

これから僕は、自分が脳腫瘍という病を得たことについて、話をします。でも、苦しいのは僕だけではありません。誰しも、さまざまな事情や想いを抱えながら日々、生きておられるのだと思います。

そういうふうに考えたときに、僕は、ますます、自分が他者に向けて何を語るべきなのかが、分からなくなっていきます。

だから、僕は、今日、自分自身のことを、正直に、率直に話したいと思います。それが、皆様への最大限の誠意になると、考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

はじめに、生まれてから病気が見つかるまでの27年間について話します。脳の中の腫瘍がいつ、発生し拡大を始めたのかは、分かりません。この話の中のどこかで、僕にとっての脳腫瘍との闘いは、始まります。

僕は1977年12月に生まれました。現在、30歳です。2歳のときに、川崎病、という病気に罹りました。当時のことは、まったく覚えていません。

ただ、両親の言葉を借りるなら「高熱が続き、舌が真っ赤に腫れあがって、医師から、最悪の事態もあり得る、と言われ、覚悟した」とのことです。18歳になるまで心臓の検査を受けていました。

本当に、両親には心配をかけて育ちました。 母からは、「いったんは、もうダメかもしれないと思って、それでも大丈夫だったんだから、アンタは、生きてるだけでいいんだよ」と言われて育ちました。

「生きているだけでいい」という母の言葉は、僕の人格形成に、今でも、大きな影響を与えて続けていると思います。

「世の中には、いろいろな人がいて、自分は病気になったけれど、いいお医者さんに出会えて、たまたま、治療も上手くいって、そうして、今、生きているんだ」と、僕は、子どもの頃から、生きることと、死ぬということについて、具体的に考える機会を得てきました。

小学生の頃、僕は、当時住んでいた地域の自治体が主催する、キャンプに参加していました。大学生や、将来、看護師を目指す、というような若い人たちが、ボランティアとしてキャンプを運営し、子どもたちを引率してくれました。

参加する子どもたちの中には、いわゆる、“しょうがい”を持つ子どもたちが含まれていました。

ここで、申し添えておきます。僕は、この後の話でも、“しょうがい”とか“しょうがい者”という言葉を使うと思うのですが、僕は、この言葉が嫌いです。

“中学生”という名の“中学生”がいないように、“しょうがい者”という名の“しょうがい者”もいないと思います。ひとりひとり、名前を持った、「人」がいるだけです。

ただ、話の流れの中では、具体的に個人名を出すわけにもいかないので、便宜的に“しょうがい”という言葉や、障害名を使いたいと思います。もし、そのことで、傷ついてしまうかたがおられたら、本当に、申し訳ありません。お赦しください。

話を戻します。僕が参加していたキャンプには、“しょうがい”を持つ子どもたちが、多く、参加していました。班を組むときに、いわゆる“健常”な子どもと、“障害”を持つ子どもが、一緒になるように企画されていました。

同じ班の子に、殴られたり、噛みつかれたりしました。そのたび、ボランティアの学生さんが、「それは、笠原くんへの好意の表現なんだよ」と教えてくれました。

そのキャンプでの経験は、小学生だった僕にとって、とても印象に残る出来事でした。

今ほど、物事をややこしく考えることもなく、キャンプを楽しみながら、自然に、すっと、人の輪の中に入っていくことができたように記憶しています。キャンプのスタッフをなさっていたかたがたに、感謝しています。

小学校卒業と同時に、引っ越しをしました。両親が、ローンを組んで、家を建てたのです。中学校で、僕は、すぐに周りに馴染むことができず、いじめの対象になってしまいました。

僕は、歩き方が、少し、傾いています。そこで、つけられた、あだ名が「身体障害者」でした。「身体障害者」と呼んでしまうと、先生にバレてしまうので、「しんたい」と略して呼ばれていました。

「しんたい」と呼ばれるたびに、心の中が凍りつきました。  あだ名をつけられて、みんなから、こそこそ言われること自体がイヤだったのか、それとも、「身体障害者」という言葉自体に、嫌悪を感じていたのか、今となっては思い出せないのですが、いずれにせよ、僕は、そこでもまた、“しょうがい者”という言葉に出会い、考える機会を得ました。  

暴力によるいじめも日常的に受けていました。すれ違いざまに殴られるので、廊下を歩くのが怖かったです。友だちが殴られているときも、僕は、怖くてからだが動きませんでした。僕は、臆病者です。そのときのことを思い出すと、ほんとうに恥ずかしいです。  

当時は、中学校の先生も、生徒を、どんどんブン殴っていました。暴力は連鎖する、と僕は感じました。先生が生徒を殴って、生徒が、弱い生徒を殴って、また先生が生徒を殴って、と、キリがありません。

いい先生にもたくさん出会ったけれど、残念ながら、そうじゃない先生もたくさんいました。そういう体験が、後に、教員を目指し、実際に学校現場で働いていた、僕の原点でもあります。

中学校では、学年が上がるにつれ、良い友だちに恵まれ、いじめも無くなっていきました。特に中学3年生の頃は、最高に楽しかった記憶があります。当時の同級生が今日、この会場に来てくれています。ありがとう。  

高校では、空手部に入部しました。理由はたんじゅんです。もう、暴力に屈したくなかったからです。空手部での経験は、とても役に立ちました。もともと僕は、運動が苦手だったので、競技としての空手で、強くなれるはずがありません。

でも、先生は、練習に毎日出ている僕を、必ず公式戦に出してくれました。先生にいつも言われました。「笠原、オマエは、運動神経鈍いんだから、どうせ勝てるわけねぇん。試合が始まったら、一歩も後へ下がるな。とにかく、前に進んで、突っ込んで、意地張って負けてこい!」先生の言葉は、今でも、僕の支えです。

今、僕は、勝ち目の無い試合を強いられています。でも、目を伏せていたら、相手の突きを喰らうだけです。怖くても、戦う相手をしっかり見極めなくてはなりません。

 思えば、僕は、その頃から、精神的に不安定になっていました。もともと、性格的に神経質だったこともあると思うのですが、とにかく、毎日毎日、下痢を起こして、授業中や、テストのときなど、ツラい思いをしていました。

登校中に、何度も下痢を漏らしたり、昼休みは、離れの校舎のトイレにこもっていた記憶があります。修学旅行や、部活の遠征、受験などのときは、とても苦労しました。10代の後半から、僕は、ただただ、腸の具合いを気にしながら、生活するようになりました。  

僕は、大学で、哲学を専攻しました。  大学の授業はとても興味深かったです。2年生の頃は、倫理学に興味を持ち、中でも、生命倫理について、本を読んでいました。告知、とか、尊厳死、という言葉について、考え、学んでいました。

しかし、腹痛から逃れることはできず、90分という授業時間の長さが負担でした。なにより、自宅から、大学まで、普通に行けば、1時間ちょっとで着くところが、電車の中で、腹痛を起こして、何度も、電車を降りるので、ひどいときは、3時間くらいかかっていました。重要なテストの前の日は、大学近くのカプセルホテルに泊まっていました。

サークルにも入らず、ただ、ひたすら、移動と授業に苦痛を感じながら、大学生活を送りました。ゼミの合宿などは、仮病を使って休んだ記憶があります。  

大学3年くらいのことだったと思うのですが、母のすすめもあり、神経内科に通うようになりました。「過敏性腸症候群」という病名がつき、安定剤や、軽めの抗うつ剤を処方されていました。  

僕は、授業をさぼって、パチンコを打つようになりました。大きなパチンコ屋さんは、トイレが綺麗で、借りやすいので、腹痛生活の中で、頻繁に利用していました。それが、いつの間にか、すっかり、パチンコにはまってしまい、雑誌を買って研究する日々が続きました。  

僕は、子どもの頃から、確率統計学に興味があり、サイコロを5,000回振って、出目が6分の1になるかどうか、を自由研究として提出したりしていました。だから、パチンコは、トイレも使えるし、僕にとって、最高の遊びになりました。だんだん上手くなってきて、収支をプラスにもっていけるようになりました。  

お金を稼ぐ、と言えば、僕は、大学に入ったと同時に、学習塾でのアルバイトを始めました。バイトは夜が中心なので、お腹の調子的にも、僕に向いていました。朝や日中に、さんざん下痢をして、それから、アルバイトの時間になるからです。

もともと僕は子どもが好きだったので、すぐに、夢中になりました。どうしたら、より、理解の深まる授業ができるか、技量を上げるために、いろいろ勉強しました。楽しかったので、ぜんぜん苦痛ではありませんでした。

大学生活も終わりに近づき、次は就職、となりましたが、結局、就職活動も、腹痛を言い訳に適当に投げ出してしまい、教員免許を取る、ことを言い訳に 大学を1年留年しました。  大学の友だちは、みんな卒業してしまったので、大学5年生は、とても寂しかったです。

いつも大切な何かから逃げだしているような気がして、なんとなく、ぶらぶらしていました。  近所の本屋で、立ち読みをしていたら、偶然、中学校の頃の同級生に声をかけられました。

吉田くん、という人です。今日も、この講演会に駆けつけてくれました。「余命宣告.com」は、これまで2回講演会を行ったのですが、吉田くんは、2回とも、講演者として出演してくれて、アツく語ってくれました。中学校のとき、一緒にギターを弾いて遊んでいた友だちは、みんな、高校卒業と同時に就職していて、立派な社会人でした。宙ぶらりんだった僕にとって、彼らは、ほんとに、眩しく見えました。  

久しぶりに、連絡を取り合うようになり、もう一人の親友と一緒に、バンドを結成することになりました。自主制作でCDを作ったり、会場を借りて、ライブをやったりしました。とても、楽しかったです。遊んだり、話をしたりしているうちに、僕の中で、だんだん、エンジンがかかってきて、よし、俺も頑張るぞ、という気持ちになることができました。

あのとき、吉田くんが、本屋で声をかけてくれなかったら、あのまま僕は沈んだままで、次の仕事にも就かず、教壇に立つこともできなかったと思います。ほんとうに、感謝しています。ありがとう。

僕はとにかく、人との出会いに恵まれていて、素晴らしい友人をたくさん持つことができました。こうやって、いつ発作が起こるか分からないし、人前で話すのは、とても勇気が要るのですが、今日も、友だちが、仕事が忙しいにも関わらず、講演会に来てくれていて、だから、僕は、こうして、話すことができます。ほんとうに感謝しています。ありがとう。ありがとう。

実家を出て、一人暮らしをすることにしました。両親にわがままを言って、かなりの額を援助してもらいました。実際、僕は、怖かったのです。腹痛は相変わらず続いていたし、とにかく、何をしても疲れるし、いつもイライラしていました。

バンドをやっていた友だちにも、「オマエ、あの頃、なんか、変なことで、ヤバいくらいイライラして怒ってることとかあって、俺、変だと思ってたんだよ。」と、病気が分かってから、言われました。そのときは、とにかく、一人になりたかった。このまま実家にいたら、何をするか分からない、と内心では思っていました。

一人暮らしを始めてから、僕は、教員採用試験を受験し続けながら、臨時採用教員として、学校の現場で働くことになりました。短期間で、3つの中学校を回りました。塾で働いていた頃からそうなのですが、僕は、子どもと関わる仕事をすることが、ほんとうに楽しくて、仕事自体を、ツラいと思ったことは、一度もありませんでした。

でも、腹痛はますます悪化していたので、朝から夜まで、フルタイムで働くことは負担でした。寝る前に水をたくさん飲んで、朝、強制的に下痢を起こし腸の中のものを全部出して、ふらふらになりながら、職場に行く日々でした。朝、もうすでに疲れ果てていることと、自分自身に対して、強い苛立ちを感じていました。

最後に働いたのは、重いしょうがいをもつ子どもたちのための、養護学校でした。運よく、4年間、同じ職場で働くことができました。養護学校での仕事も、とにかく楽しくて、月日が経つのがあっという間でした。

中学校から、養護学校に異動したとき、中学校の頃、お世話になっていた先輩方から、よく、訊かれました。「中学校と、養護学校じゃずいぶん違うでしょ」とです。決して強がりではなく、僕にとっては、どちらも、そう変わりはありませんでした。

学校の子どもたちは、話すことも、歩くこともできない子がほとんどでした。でも、ひとりひとりの子どもたちに向き合うときに感じる気持ちは、相手がどういう状態であろうと、特に変わりはありませんでした。 ただ、僕は、そこまで、「言葉」に強く依存していたので、体温や、目線や、呼吸や、心拍数から、相手の気持ちを感じとっていくことに、慣れるのには、時間がかかりました。

でも、慣れてしまえば、食事の介助も、おむつの交換も、当り前のことのように、行えるようになりました。むしろ、生徒の数が少ないので、ひとりひとりとじっくり向き合うことができて、充実していました。

「身体障害者」とあだ名をつけられていた僕は、「身体障害者」の先生になりました。中学生の頃のことを思い出して、僕は、心から恥じました。別に“しょうがいしゃ”だろうが、なんだろうが、関係ないのです。僕は、子どもたちのことを、心から愛していました。今でも、ときどき、みんなはどうしているかぁ、と思います。

養護学校で、一番、衝撃を受けたのは、生徒が、ある日、突然、亡くなってしまう、ということでした。気候が不安定になると、子どもたちの体調も不安定になって、不幸が続くこともありました。  子どもたちの葬儀に、何度も参列しました。どうして、どうしてこんなに悲しいことが起こるんだろう。僕は、ずっと、下くちびるを噛んで、泣きたいのをこらえていました。

廊下で、お気に入りのおもちゃを転がして遊ぶ子どもの手を取りながら、僕は思いました。  「もし、運命が裏返ったら?」染色体異常の障害の場合などは特にそうなのですが、人口において何万人にひとり、とか、そういった統計が出されています。中途障害になる可能性も含めれば、僕だって、いつ、障害を持つからだになってもおかしくない、と思っていました。

同時に、障害をもって生きているということは、決して、恥ずべきことではない、とも思いました。恥じるということは、僕の大好きな子どもたちを否定することと同じだからです。もし、もし、自分が何かの理由で、障害を持つからだになったとしても、僕は、与えられた条件の中で、この子たちと同じように、可能な限り、懸命に生きよう、と自然に思うようになりました。

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(2008.11.24 笠原 健一[jive宇都宮])

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