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“障害者”について(jive宇都宮)

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“障害者”という言葉に、僕はどうしても馴染むことができない。

子どもの頃は、“障害者”の子と一緒に参加するキャンプに行っていた。大人になってからは、養護学校で働いていたし、今も、“障害者”のかたに関係する仕事をしている。“障害者”の友達もたくさんできた。

もちろん、いわゆる「障害者手帳」を持っている人が、“障害者”だ、というふうに定義してしまえば、この問題は、すぐに解決する。

でも、僕が感じているのは、もっと根源的な問題だ。

何年か前から、“障害者”は、“しょうがい者”と平仮名で表記するようになったけれど、それでいったい、何が変わるんだろう、というのが僕の実感だ。

“障害者”の反対側に位置する言葉は、“健常者”だ。僕は、この“健常者”という言葉にも違和感を覚える。

物事は、そんなに簡単に、2つに分けられるんだろうか。僕の疑問は、そこからスタートしている。

“障害者”を尊重する、ということは、それぞれの個性を重んじることにつながると思う。でも、実際、いろいろな“障害者”のかたと接していくと、だんだん、その人が、“障害者”であるかどうか、ということは、どうでもよくなってくる。

そこにいるのは、あくまでも、「○○さん」や、「△△さん」のように、具体的に名前を持った存在だ。対等に向き合おうとすればするほど、“障害者”という輪郭は、ぼやけてくる。

“障害者”という言葉をめぐっては、さまざまな言説がある。

たとえば、『“障害”は、“病気”ではありません』という言葉。

実際、僕は、“障害者”のかたから、「jiveくんは、“病気”なのであって、“障害者”ではないよ。」と言われたことがある。

毎日のように、てんかん発作を起こしているのに?

おそらく、そこには、“健康”と“病気”という、別の二項対立が存在するのだと思う。

“障害者”を“障害者”として扱うことは、同じ人間の中に、意図的に線引きをすることだ、と僕は思う。

“障害者”が、「自分は“障害者”です」という場合も、同様だと思う。

「わたしたち“障害者”は……」で始まる言葉もたくさん存在するが、本来、“障害者”が多様な人の集合体であり、それぞれの個性を認めてもらうことが、人権擁護等の活動の目的となっているのならば、「わたしたち」という言葉で、“障害者”をひとくくりにしてしまうのは無理があると思う。

「あなたたち“健常者は”」と語りかけられた“健常者”の中には、「いや、俺だって、いつも健康なわけじゃーねーし」と感じる人もいるだろう。いつまでたっても議論は平行線だ。

“障害者”の中で、“障害者”を差別する、という不毛な構図が生まれる危険性もある。“障害者”の中には、言葉が理解できず、自分が“障害者”であることを知らない人もいるし、理解どころか生きているだけで精いっぱい、という人もたくさんいる。

齟齬や摩擦の原因は、そもそも、“障害者”と“健常者”を対立構造としてとらえようとするところから始まっているのではないか、と僕は個人的に強く思っている。

もちろん、「福祉」の必要性を否定しているわけではない。

現実問題として、“障害者”は、生きていく上で、文字通り、多くの「障害」と向き合っている。

「福祉」の問題を考えるときにより必要なのは、線引きではなく、『想像力』だと思う。

いわゆる“健常者”の人の中には、「働かざる者食うべからず、なんだよ。俺は、働けなくなったり、動けなくなったりしたら、自ら死を選ぶね」という意味のことを言う人がいる。

ひとりではない、何人も、そういう人がいた。

でも、そこには、『想像力』が欠けていると思う。たとえば、事故で“障害者”になった場合、自ら死を選べるくらい、手足の自由がきいているのかどうか、もしくは、「死」ということを考えることができるほど、理性が明瞭に働く状況なのか、そこまでは、想いが及んでいないと思う。

“障害者”の人も、ひょっとしたら、自分とは違うタイプの“障害者”の人への想いが足りない場合もあるかもしれない。

「働けないなら生きる資格が無い」というのは、あまりに短絡的過ぎる。歴史の中で、そういう時代があったことはたしかだが、現代社会において、そのような極端な理念を持ち出すことに、何の効果があるのか、僕には分からない。

それに、歴史とは、過去から学ぶためにあるのだ、と僕は思う。

反対に、“障害者”の側からも、“健常者”への、思い遣りが必要だと思う。実際問題として、「福祉」は“健常者”が、日々、働いて、納めた税金によって、成立している。

この記事を書いている現在、日本は、いや、世界は、未曾有の経済危機の中にある。そういうことも、「福祉」を考える上での、大切な要素だ。

誰もが、さまざまな理由を持ち、そして、未来へ向かい、それぞれの可能性を持っている。今の日本の社会には、どう考えても、セフティーネットが必要だ。その網の大きさを決めるとき、自らも、そして、自らが愛する人が、その網の中へ落ちる可能性について、じゅうぶんに想像力を働かせることが必要だ。

今、セフティーネットによって、支えられている人たちも、網の端を持ってくれている人たちへの感謝の気持ちを忘れてはならないと思う。

多様性を、共感に基づいた、より穏便な方法で認め合うことが、結果として、社会をより良い方向へ発展させるのではないか、と僕は考えている。

そのとき、「バリアフリー」の理念が、ほんとうの意味で、実現に近づくのではないかと思う。

僕は、人が好きだ。

そこには、“障害者”も、“健常者”も、いない。

ひとりひとりの存在があるだけだ。

それぞれを愛しながら、僕は、今、自分が出来ることについて、考え抜き、そして行動しようと思う。

(jive宇都宮 2008.10.20)

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