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生きるということ(jive宇都宮)

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小学生の頃、たしか「10回クイズ」というような名前のゲームが流行った記憶がある。

「『ピザ』って10回言ってね。」

「ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ。」

「じゃあ、ここは??」

と、肘を指差されると、答えは「ひじ(肘)」なのに、つい、「ひざ(膝)」と答えてしまう。

このホームページの名前は「余命宣告.com」だ。メールアドレスを掲載しているので、ときどき、『生きるってどういうことだと思いますか?』と、いうメールをいただくことがある。

そのたび、僕は、「生きるって何だろう」と考える。

今、僕は、だいたい2日に1回くらいのペースで、てんかん発作を起こしている。程度の差はあるし、もっと頻繁に起こることもあるけれど、とにかく、けいれん発作は、僕の日常に入り込んでいる。

感情を昂ぶらせたり、心拍数を上げたり、話す・食べる、など口を使いすぎると発作が起きやすくなる。だから、いつも注意している。油断すると、ほんとうに強い発作が起きるので、ひたすら自分を抑え続けている。

発作のことを考える。その先には、脳のことがあって、腫瘍のことがある。グリオーマのことを考え始めると、どうしても、生きるとか、死ぬとか、そういう方向へ思考が行き着いてしまう。

仕方が無い、と自分では考えている。主治医の先生のお話によれば、発作の回数と、残りの時間とは、あまり関係が無いようだけれど、だからといって、苦しい思いをするのは、できるだけ避けたいし、うっかり、強い発作を起こしてしまうと、しばらく動けなくなってしまうから、やっぱり「発作を避ける方向で」僕は行動している。そして、その行動の先には、生死の問題が待ち受けている。

できれば、そんなことは考えずに暮らしていきたい。病気になってしまったこと自体は仕方が無いとしても、今はこうして、とりあえず生きているのだから、せめて楽しいことを考えて生活したい。

でも、それはできない。楽しいことを考えすぎると、気持ちが昂揚して、倒れてしまう。やむを得ず、自分で自分を封じ込めている。

病気のことは、僕の個人的な問題だし、発作を避けるように生活を制限しているのも、自分で決めてやっていることだ。医師からは何も制限されていない。生きることについて毎日考えているからといって、特段、人より優れた何かを得ているとは思えない。

でも、あらためて「生きるってどういうことだと思いますか?」と問われると、僕は思う。

『そんなことは、あまり考えないほうがいいのかもしれない』と思う。

誰かの死に出会ったり、死を扱った本や映画を観たりしたときに、ちょっと想いを巡らせて、「ああ、生きてて良かったなぁ」と思えれば、それで良いと、今の僕は思う。

僕は、自分の主治医の先生を尊敬している。そして、ときどき考える。「先生は家に帰ったら何をしているんだろうか」

脳外科医は、毎日のように、人の生死に向き合っている。でも、家に帰ってまで、そのことを考え続けていたら、いくら強靭な精神力をお持ちでも、きっと具合いが悪くなってしまうんじゃないか、と想像する。

哲学者とか、宗教家とか、人の生き死について考えることそのものに生活の重点をおいておられる方々は別にすれば、「生きる」ということへの思索は、朝のジョギングや、日常から離れて旅行へ行くときのように、生活の中の、一部であれば、じゅうぶんなのではないか、と思う。

もちろん、別に、そんなこと考えなくても、それで良いと思う。

生きていれば、それでいいと思う。

僕は、この必要以上に長い文章と同様、「生きる」ことについて考える自分に疲れ、行き詰っている。たぶん、このままいくと、僕は、からだより先に、心がまいってしまいそうな気がしている。

だから、僕は、「生きる」というような大切な問題について、意見を言える立場ではないと分かってはいるけれど、生きることについて悩みすぎて、かえって体調を崩しておられるようなかたからメールをいただく度に、もし、できることならば、生きることに必要以上に向き合うことの呪縛から逃れ、少しでも気分良く、暮らしていただけたら、と願っている。

生きる、生きる、グリオーマ、グリオーマ、繰り返せば繰り返すほど、僕は、自分自身が分からなくなる。

自戒を込めて書いた。生きること、死ぬこと、病との距離の取り方を模索していこうと思う。

(jive宇都宮 2009.6.15)

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