1年(jive宇都宮)
「1年」という時間について考える。
この文章を書いているのは、平成21年2月16日だ。
僕は、今、アルバイトとボランティア活動をしている。「年度」で区切られる仕事なので、当然、今、「来年度は」という話になっている。
今の僕にとって、「1年」は、とても長い。
1年後の平成22年2月16日、不慮の事故にでも遭わない限り、僕は、おそらく生きていると思う。
インターネット上には、たくさんの情報が溢れている。グリオーマは、3万人に1人の割合で発症する病気と聴いた。日本の人口を考えただけでも、グリオーマの患者さんは、たくさんおられる、ということになる。その分、症例も増える。そして、「統計」が数字で示される。
『希望を持ってね』と、人から言われることがある。もちろん、僕は希望を持っている。そもそも、今の僕にとっては、生き続けていること自体が「希望」だ。
と同時に、具体的な「数字」に対して、冷静に目を向けなくてはいけない、ということも分かっている。
2005年12月に、28歳にグレードⅡで発症し、医師の話によれば、腫瘍は7割摘出された。てんかん発作は、日常的に起きている。
私見ではあるけれど、意識を保持した発作が多いということは、起きているのは、おそらく「部分発作」に区分されるのではないか、と思う。脳全体に発作が及べば、意識を保つことはできない、と思う。
発症から3年2ヶ月が経過した。
ここまでは、「再発」が起こらなかったのは、統計的に「妥当」だ。でも、次の1年を考えると、気持ちが重くなる。
最初にも書いたけれど、来年の今頃、たぶん、僕は生きている。でも、こうして、パソコンで文章を書ける状態であるかどうかは、分からない。
今やっているアルバイトや、ボランティア活動なども、頭を使ったり、対人関係調整能力を必要とするものなので、尚更、1年後の僕が、それらをこなせるかどうかは、分からない。
「人生、いつ、何が起こるか分からない」というのは、事実だと思うけれど、僕の場合は、その「何か起こる」が、未来に向かって、ほぼ確定的だ。という現実がある。「何か」は1桁の年数のうちに、おそらく起こる。早いか遅いか、の問題だ。
今は、誰かの役に立ちたい、その一念で、いろいろな活動をしている。
でも、アルバイトも、ボランティア活動も、継続的な性質を持っているので、「先」を考えながら役割を果たす必要がある。
「仕事をするときは、10年先、5年先、1年先、と先を見据えて」と、書物や上司から教わってきたけれど、今の僕は、いったい、どのあたりに照準を定めて行動すればいいんだろうか。
「自分でなければ」と思うことは無い。僕が消えても、世界は回り続ける。仕事も、生きることも、次の走者へバトンを渡していく、リレーだと、僕は思う。
告知通りになるとすれば、僕は、すぐには死ねない。そこで後悔しないように「やりたいこと・仕事があるなら短い期間で考えた方がいい」と医師からアドバイスを受けている。
でも、と思う。
「後悔したくない」というのは、僕の個人的理由だ。
「後悔したくない」から、今、やるのか、と問われたら、「そうではない」と答えたい。
僕はもう、働いて、たくさんお金を稼いで、税金を納め、社会に貢献できるからだではない。でも、たくさんのものを、人から、社会から、受け取ってきた。だから、どんなに小さくてもいいから、自分にできる範囲で、人の役に立つ仕事をするんだ、と思い直す。
エゴなんて要らない。プライドや矜恃なんて、今の僕には必要ない。
自分に「期限」があって、そのことが、人との仕事に影響するのなら、自分自身を引き算して、合理的にリスクマネジメントするんだ、と自分に言い聞かせる。
今やっていることから、もし、「明日」すぐに撤退することが適当だという結論に到達したなら、すぐに手を引かなくては、と思う。
未来に向かって働いているのに、『引き際』を常に考えなくてはいけないのは、正直、苦しい。
でも、やるんだ。やるしかない。自分のことは考えず、未来に向かってボールを投げる。
(jive宇都宮 2009.2.16)