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医療について(jive宇都宮)

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脳腫瘍に関して、僕は、4つの病院の6人の医師に、お世話になってきた。もちろん、今も、定期的に診察を受けているし、これから先も、お世話になると思う。

どの病院の、どの先生も、とても良い先生ばかりで、的確な判断と、治療をしてくださった。だから、僕は、こうして、文章を書くことができる。ときどき、おひとりおひとりの先生のお名前を思い出して、心の中で感謝している。

幼少のときに、川崎病の治療をしてくださった先生も、とても良い先生だった、と母から聴いている。20代になって、体調不良の原因が分からず、神経内科に通っていた時期があるのだけれど、その病院の先生も、とても良い先生だった。

僕の人生は、とにかく出会いに恵まれている。だから、いわゆる「医療不信」を感じたことは、ほとんど無い。

ただ、人からは、医療を通じて、嫌な思いをしたり、苦しい体験をした、という話をよく聴く。実際、話の内容から考えて、「そりゃ、ひどい」というケースもたくさんある。

僕は、運が良く、恵まれているのだと思う。だから、そんな僕が、「医療」について何かを書いても、「ひどい」ケースを体験なさったかたから見れば、『何を言っているんだ』ということになってしまうかもしれない。

でも、僕は、自分の体験したこと以上は書けないので、あくまでも、自分が体験し、感じた範囲について、書いていきたい。

僕が、最近、強く思うのは、「お医者さんも人間なんだなぁ」ということだ。

診察室で先生にお会いしたとき、僕は、先生自身の生活や人生について想像する。

「いつも忙しそうだけど、休日って、あるのかな?」「家に帰って、テレビを観たりするんだろうか?」「好きな食べ物は何なのかな?」「たくさんの死を見てこられたと思うけれど、生きること、死ぬことについて、どういう価値観をお持ちなんだろう?」

僕は「患者」で、相手は「医師」だ。その関係は、もちろん、なのだけど、同時に、やっぱり、同じ人間なんだよな、と思う。

そして、最初の話に戻ってしまうけれど、僕が「医師」という言葉から、具体的に想像できるのは、今まで出会ってきた先生方だけだ。

テレビでお医者さんの姿を見たり、漫画でブラックジャックに出会うことはあるけれど、僕は、彼らと「医師・患者」の関係を持っていないので、その場合の「医師」は、イメージとしての「医師」でしかなく、具体的な存在ではない。

たとえ、同じ病名でも、人によって、症状が違うし、仮に、一般的な治療法、というものが確立されている病気であっても、実際には、患者さんも、お医者さんも、人格を持った個人なのだから、それぞれが、ケース・バイ・ケースなのだと思う。

「医師」だって、人間なのだから、病気になる。

診察室で、医師から、ご自身の個人的な話を聴いたことはないけれど、「この人も、何かの病気を持っていて、別の場面では、『患者』なのかもしれないな」と僕は想像する。

さっき、久しぶりにテレビのニュース番組を見たら、『政治家は国民を欺いている』『国家公務員のあり方にたいし、国民は納得できないはずだ』という意味のことを報道していた。

僕には、そういった言葉が、どうしても理解できない。

「政治家」だって「国民」だし、「国家公務員」だって「国民」だと思う。

正確には『政治家は、政治家以外の国民を欺いている』『国家公務員のあり方に対し、国家公務員以外の国民は納得できないはずだ』と表現するのが適当だと考える。

(※「政治家は」「国家公務員は」と『ひとくくり』にして、物事を考える方法について疑問を感じている、という意味です。その内容が“正しい”かどうか、は、僕には分かりません)

もちろん、それらの言葉の使い方は、「便宜的」に行われているのだ、と思う。いちいち、「○○以外の・・・・・・」というような言い方をしていては、話がややこしくなってしまうからだと想像する。

でも、「言葉」には、「力」がある。抽象的な対立構造でも、はっきり「言葉」で示されると、なんだか、その対立が、ほんとうに存在するかのような錯覚を覚えてしまうことは、あると思う。

医師が、「先生様」で、患者は、その言うことを聴くしかない、というのは、たしかに間違っていると考える。

最近は、病院での表記が「患者」から「患者様」になっているのを、見かけることがある。だからといって、「医師と患者が対等になった」「医療はサービス業で、患者はお客様で、お金を払って治療を受けているんだから、何を言っても良いんだ」と、たんじゅんに捉えられるものだろうか、と僕は考えている。

そもそも「対等」って何だろう? いったい、どこの何という病院の、何という名前の医師が、どこに住んでいる、何という名前の患者と、対等になったんだろう、と僕は考える。

レストランで、「俺は客で、金を払っているんだから、何を言ってもいいんだ」と主張する人を、僕は尊敬することができない。たしかに、そうかもしれない。店員さんの態度が、ひどすぎれば、それはもちろん、苦情を言ってもいいと思う。

マイナス面での許容量は、人によって違うと思うので、考えるのは難しい。でも、プラス面、つまり、レストランの例で言えば、「ありがとう」とか「ごちそうさま」とか、そういうことを、さらりと口に出来る人は、カッコいいし、素敵だと思う。

「患者」という状況になっている、ということは、からだのどこかの調子が良くない、ということだ。体調が崩れれば、精神面も不安定になる。僕自身も、発症の何年も前から、現在に至るまで、常に苛々している。

入院中、苛立ちを看護師さんや、医師にぶつけている人を何人も見た。でも、その人たちの病状を考えると、仕方がないのかな、と思った。死に向き合って、冷静さを失うのは当たり前だし、そもそも、感情をコントロールする部分自体の病なら、苛立ちは当然のことだ。

偉そうに書いているけれど、僕自身も、大きな発作で入院したときに、平静を失って、主治医に文句をまくしたてたことがある。何を言ったかは、よく覚えていない。でも、先生の悲しそうな目が印象に残っている。

こうやって書いていると、次々と、お医者さんや、看護師さんや、患者さんの顔が浮かんでくる。でも、それは、すべて、実際に会ったことのある人の顔だ。

僕にとっての「医療」は、実際に、人間と人間同士が関わる、具体的な行為だ。

脳の病気だから、いつまで今の考えを維持できるか分からないけれど、自分自身を保っていられる限りは、お医者さんや、看護師さんに、「ありがとうございます」と感謝の気持ちを続けたいと思う。

病院で、「ありがとうございます」と言うと、お医者さんや看護師さんは、「これが、わたしの仕事ですから」と、応える。でも、その言葉には、いつも、たんじゅんに仕事だから、ということ以上の意味と想いがこもっていると、僕は感じる。

手術や薬や放射線治療だけではなくて、医療に関わる人の「想い」で、僕は生かされていると思う。僕にとっては、それらすべてが「治療」であり、「医療」であると感じている。感謝の気持ちを忘れずに、日々を送っていきたい。

(jive宇都宮 2009.2.3)

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