講演会

jive宇都宮の講演 ~生きる~

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みなさん、はじめまして。インターネット上では、「jive宇都宮」、本名は笠原健一と申します。

今、歌ってくれた、“ピーナッツしんじ”くんとは、中学校の頃からの親友です。20代になってから、一時期、もうひとりの親友と一緒に、バンドを組んでいたこともあります。

最近、僕は、左手の力が弱くなってきているので、ギターを弾くのはあきらめていました。でも、今回、この機会が、もう最後かもしれないので、チャレンジしました。

久しぶりに、しんじくんと音楽をやることができて、胸がいっぱいです。(*しんじくんは、講演の最後に歌を唄ってくれたのです。)

“看護師”の○○さんには、以前からたいへんお世話になっています。尊敬しています。○○さんと並んで、こうしてお話をすることができることが、とても嬉しいです。

“そら”さんは、僕がホームページなんてもう止めよう、と思っていたときにメールをくれました。彼女との出会いがなければ、この第2回講演会は、開催されなかったと思います。“そら”さん、ありがとう。

そして、“クロロ96”さんこと、□□くん、です。“クロロ”さんが、インターネットでのつながりから飛び出して、僕に連絡をくれて、実際に会って、話をして、家に帰ってからも、パソコンの音声チャットで毎日話すようになって、そこから、ホームページ「余命宣告.com」は生まれました。

彼の存在が無ければ、ホームページも、前回、そして今回の講演会も、生まれなかったと思います。

僕とクロロさんは、グリオーマという同じ病を持つだけではなく、病状も、けいれん発作のとき、なかなか意識を失わなくて苦しいということも、そして価値観も、とても似ていました。毎日、何時間も、話したのを思い出します。

“クロロ”さんは、発症から1601日で、星になりました。早過ぎる死でした。悔しいです。でも、ありがとう。君が作ってくれたつながりが、今、また広がって、この第2回の講演会になっています。

僕のカウンターは「989」です。今日は、わたくし“jive宇都宮”の989日目のメッセージを話します。

僕は、1977年12月に生まれました。現在、30歳です。

2歳の頃、川崎病にかかりました。僕は覚えていないのですが、高熱で、舌が腫れあがった僕を見て、両親は、最悪の事態を覚悟したそうです。

死なずに済みましたが、その後、18歳になるまで、毎年、心臓の検査を受けていました。母親からは、「あんたは、生きているだけでいいんだ」と言われて育ちました。

だから、今、脳に腫瘍が発見され、再び、「生きているだけ」の部分が危なくなってしまっていること、心配しても仕方のない心配をかけていることを、両親に対して、とても申し訳なく思っています。

2005年12月、ちょうど、僕の28歳の誕生日の日に、最初のてんかん発作が起こりました。朝、目が覚めたら、布団の上が血だらけになっていました。発作のとき、舌を噛んだのです。鏡を見たら、目の下に、赤いくまができていました。

4日後に再びけいれん発作が起こり、今度は、話せないほど、舌を噛んでしまったので、さすがに自分でも変だと思い、病院に行きました。

「1時間遅れます」と職場に電話をして、病院に行って、CTを取って、すぐに大きな病院へ、ということになりました。「ご両親をよんでください」と言われて、僕は、スーツ姿でネクタイを持ったまま、病院の公衆電話で、泣きそうになりながら、実家に電話をしました。

検査の結果、右脳の運動機能を司る部分に、グリオーマという腫瘍があることが分かりました。翌年の4月に手術をし、放射線治療を行いました。

放射線治療中に重積発作を起こしてしまい、その夏は病院で過ごしました。

2006年8月退院するときまでに、主治医から言われたことをまとめると、「左半身のまひを避けるため、腫瘍はあと3割残してある。君の場合、けいれん発作を無くすことは難しいだろう。今後、さらに発作が増える可能性があり、再発は、これまでになく大きな発作という形を伴うだろう。再発後のことは分からないが、左半身麻痺は覚悟してほしい。発作が増えて、意思の疎通が難しくなるかもしれない。何かやりたいなら、まず2~3年の期間を目安に行動した方がいい。」とのことでした。

僕は、いくつか病院を転院したのですが、先生方がおっしゃることの中に、共通して「インターネット」という言葉がありました。

「グリオーマに関することはインターネットにたくさん掲載されている、それ以上のことは、何も言えない」とです。

コンピュータに向かい、自分の病気のことを、必死になって調べました。その中で、ブログや、ホームページという形で、自分と同じような病気のかたが、毎日のことや、想いを書いておられることを知りました。“クロロ”さんのホームページにも出会いました。

一人暮らしをしていたアパートを引き払い、段ボール箱いっぱいの荷物と共に、実家に帰りました。帰ってからも、何度も発作が起きて、なかなか何かをしようという気にはなれませんでした。

まず、自分の荷物を片付けました。いつ、何があるか分からないからです。遺書も書こうとしました。でも、どうしても書けませんでした。

2006年の1月から、インターネット上に、ブログという形で、毎日の自分の想いを書き始めました。家族や友人へ向けての長い長い遺書のつもりで書き始めました。

病気になって、僕はバラバラになってしまいました。病気が見つかる前、僕は28歳という年齢を、自分自身の転機にしようと考えていました。

「28歳になったら」あれをしよう、これをしよう、紙に書き出して、アパートのテレビの横にしまっていました。28歳に向けて、5年後、10年後の目標に向けて、今、必要なことを学んでいこう、行動していこう、そう思っていました。

だから、28歳の誕生日に、最初の発作が起こったのは、僕にとって、偶然ではなかったのかもしれません。僕の描いていた未来は、あっという間に崩れてしまいました。

今でもそうですが、日常的にけいれん発作が起きます。意識をしっかり保ったまま、僕はけいれんしています。

頭を自分を全てを揺すぶられて、なんとか発作が止まって、その度に、散り散りになった自分をかき集めています。

僕は、弱くて、臆病です。ほんとうは、逃げ出したい。発作が続いて、苦しんで死ぬなんてイヤだ。もう一度、学校の教員として働きたい、友だちと騒いだり遊んだりしたい、家族とたくさん話したい、働いて、社会に貢献したい、発作を避けるために感情を抑えこむなんてイヤだ、もう止めたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい。何回も死にたいと思いました。

学生時代は哲学を専攻し、卒業後は、養護学校の教員として働きました。重いしょうがいを持つ子どもたちと過ごしていました。今の僕など、比べ物にならないほど、つらそうな発作を何度も見ました。亡くなった生徒の葬儀にも何度も参列しました。

生について死について、運命について、考え続けてきたつもりでした。いつか、自分にも来ることだと、思ってはいたけれど、実際、発作の恐怖、再発、死をつきつけられて、僕は蛇に睨まれた蛙のように、身動きができなくなってしまいました。

自分が、自分でなくなってしまうことが怖くて悲しくて、とにかく、自分にとって「たしかなもの」を必死で探そうとしました。

僕は、自分が、いかに恵まれた環境におかれているか、よく分かっています。世界には、平均年齢が30代の国があります。世界に目を転じなくても、世の中には、たくさんの苦しみや悲しみがあります。

頭では分かっているけれど、多くを望んでしまう。同年代の友人と比べてしまう。その葛藤の中で、毎日、ブログを書き、人と接しています。 今、この瞬間も思います。

こんなに弱虫な僕が、いったい、何の権利があって、大勢の皆様の前で、「生きる」ということについて語ることができるのか。今、話を聴いてくださっている皆様、それぞれに、いろいろな事情があり、悲しいことや、つらいことがあるんだ、ということを僕は思います。

だから、僕は、自分自身のことを書いたり、伝えたりしています。自分自身について語ることが、僕の精一杯で、そして、ブログを読んだり、話を聴いてくださるかたへの最大限の誠意です。

それがどんなに愚痴で弱音でカッコ悪いものであっても、僕は、ありのままの自分を表現し続けたいと思っています。

幸い、多くの出会いに恵まれました。インターネットを通じて、毎日、多くのコメントや、メールをいただいています。自身を表現して、それを受け止めていただける、その繰り返しの中で、僕は、自分自身を取り戻していきました。

僕は、特段、なんの才能もない、ただの30歳ですが、人との出会いに恵まれる「運」を持っていると、思います。結婚もして、アルバイトも、これ以上ないというほど素晴らしい職場にも出会え、今日の講演会のスタッフとして活躍している「☆☆☆☆☆」の仲間にも出会うことができました。

「☆☆☆☆☆」の仲間と話していると、いかに、自分が小さなことで悩んでいるのか、ということに気付かされます。同時に、僕も仲間の力になりたい、そう強く思います。

多くの人に支えられて、そして、ときには、少しではあるけれど、誰かを支えて、僕は生きています。

友人に訊ねたことがあります。僕より年上の、生まれつき、からだにしょうがいを持っている友人です。親友だと思っているからこそ、訊けること、です。

「僕は28歳になるまで、いわゆる“健常者”として暮らしてきた。だけど、この先、苦しんで死ぬ、と告知されている。あなたは、からだにしょうがいはあるけれど、僕より年上だし、今のところ、脳やからだに病気はない。まだ生きられるし、可能性もある。もし、どちらか選べるとしたら、どっちの人生を選ぶ?」

友人はすぐに答えました。「そりゃ、jiveくんの人生のほうがいいな。27年間、健常者として暮らして来られたんだから。今、jiveくんは病気かもしれないけれど、生まれつき、このからだで生きてきた自分にとってみれば、うらやましいことだよ。」

友人の率直な意見を聴き、僕はそれから何週間もの間、考えこみました。考えて考え抜いて、僕は、ひとつの結論を得ました。

世の中には、「可能な選択」と「不可能な選択」があるということです。 昼食にチキンカツ定食を食べるか、ロースカツ定食を食べるか、は、「可能な選択」です。

病気のことで言えば、手術や放射線治療など、提示された範囲内であれば、僕は、自分のことを自分で選択することができます。

でも、しょうがいを持って生まれるかどうか、とか、もし病気が治ったら、というような問いは、未知の相手に想像力を働かせる場合には有効だとしても、自分自身のことを考える際には、役に立たない、ということです。

僕は、自分に与えられた条件を受け入れるしかありません。過去がどうであったとか、未来がどうだとか、考えすぎても仕方がない、と思うようになりました。

学ぶ、という意味で過去を振り返るならば、「28歳になったら」「10年後の自分」ではなく、僕は、今、そのときをもっと真剣に生きるべきだったのだと思います。

人が死ぬ確率は100パーセントです。ホームページに「余命宣告.com」というタイトルをつけるとき、クロロさんを含め、周囲は反対しました。

「余命宣告」というタイトルは、人はいつ死ぬか分からないのだから、「死」の反対側にある、「生」を、そしてなにより「今」を生きていこう、という僕自身の決意表明でもあります。

「なりたい自分があるのなら、今、この次の瞬間からなれる」「伝えたいことは今、伝えよう」と自分に言い聞かせながら暮らしています。

機会があってメディアの取材を受けたことがあります。出版社のかたと、新聞社のかたと、1度ずつ、です。

僕自身が取材されているので、当然、先方は僕のことを尋ね、僕は、それに答えます。取材が終わった後、つくづく自分で感じたのは、「ああ、俺って、空っぽだなぁ」ということです。

今という瞬間をとらえれば、僕自身は空っぽなのだと思います。でも、それでいいのだと思います。

病気を最終的に引き受けなければならないのは、自分自身なのですが、その他の面を考えると、僕という存在は、明らかに他者とのつながりの中で生じています。

講演会を開催するにあたって、多くの方から、励ましのお言葉をいただきました。

僕は、いただいたメールやお言葉に対して、「応援ありがとうございます。うれしいです。でも、こうして、応援のメールをいただけただけで、講演会はもう、大成功していると思います」と返事を書きました。つながりが広がっているからです。

今回の講演会は、さまざまな立場の多くのかたのご協力を得て開催されました。今、話を聴いてくださっている皆様も、もちろん、その中に含まれています。今、この場を共有しているというだけで、講演会は、成功していると思います。

僕は生きています。何があっても生きていこうと思います。そう思えるのは、僕が多くの人に支えられ、つながっているからだと思います。

感謝の気持ちを忘れることはありません。いつも、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。皆様と、つながることができて僕は、ほんとうに幸せです。

「思ったことは今、伝えたい」それを実践するため、前回は、講演の最後に、妻に『I love you!』を送りました。もちろん、その気持ちは変わりません。

今回は、家族に向けて、感謝の気持ちを伝えたいです。会場に家族が来ています。あの、手とか挙げなくて大丈夫です。同じ顔なんで、見れば分かります。

お父さん、お母さん、弟Aくん、Bくんへ。発作のこととか心配かけてるのは分かってるけど、僕は、やっぱり、止まれない、です。

何を残せるか分からないし、再発とかしちゃったら迷惑かけちゃうと思うけど、やれるだけのことをやって死ぬのなら僕は後悔はありません。ちゃんと親孝行できなくて、すいません。

お父さん、お母さんが自由にさせてくれるおかげで、僕は今、最高に充実した人生を歩んでいます。ありがとうございます。

皆様、今日は、ほんとうにありがとうございました。

みんなみんな、大好きです。

以上で、“jive宇都宮”の講演を終わります。

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