このサイトについて(jive宇都宮)
クロロさんと一緒にホームページを作ろうという話になったとき、ページのタイトルを何にするか、について、ずいぶん話し合った記憶があります。
クロロさんが考えたのは、「NoNoNo脳腫瘍」だったかな。
でも、僕は、「脳腫瘍」だけではなくて、『生きる』ということ全般に通じるタイトルがいいんじゃないか、と提案しました。
「余命宣告.com」というタイトルは、僕の発案です。
クロロさんはもちろん、妻も、友人も反対しました。「あまり良い響きじゃないよ」って。もちろん、今でも、いろいろなかたから、そう言われます。
『生きる』というタイトルが良いと思ったのですが、既に、同じような名前のサイトがあり、アドレスも取得されていました。
じゃあ、なんだろう。考えながら、インターネットで、いろいろなページを見て回りました。
目に留まったのは、「もし余命宣告されたらどうする?」というような書き込みや、掲示板です。
「余命宣告」という言葉は、現在、大きな病をかかえている人だけではなくて、いわゆる、“健康”な人にとっても、興味のある「言葉」なのでは、と思いました。
インターネットは、「言葉」で検索される世界です。「少しでも多くの人に自分の想いを伝えたい」というクロロさんの願いを実現するためには、検索ワードにひっかかりやすい言葉を選ぶ必要がありました。
幸い、その狙いは功を奏し、たくさんの、いろいろなかたに、このページを見ていただいています。とても嬉しいです。ありがとうございます。
僕は、思うのです。
「余命宣告」という言葉の中身は、空っぽだと思うのです。
なぜなら、人は、必ず死ぬのだから、誰もが余命宣告を受けている、とも言えるし、実際、医療の現場で告知される余命宣告も、あくまで統計上の数字に過ぎません。
生きるということは、死ぬことと裏表であると、僕は考えています。
1日、生きれば、1日、死に近づくのだと思います。
死を見つめることは、生を見つめること、そして、生きることは、死ぬことなのだと思います。
だから、僕は、可能な限り、より良く、そして、ていねいに生きていきたいと考えています。
そうやって、いろいろ考えていくと、「余命宣告」という言葉が、僕の中で、ますます、像を結ばなくなっていくのです。
「余命宣告.com」なんて、悪趣味な名前をつけて、そのことによって、気分を害したかたがおられたとしたら、たいへん、申し訳なく思います。
ただ、クロロさんも、僕も、そして、新しくメンバーになった、そらさんも、真剣に、このホームページに取り組んでいます。
僕は、パンクロックが好きでした。一生、反抗期でありたいと思っていました。自分自身への懐疑心だけは失いたくない、と思っていました。
だから、「余命宣告.com」という名称は、「生きる」ということが再びクローズアップされている現代社会に対する、僕なりのカウンターカルチャーです。
僕は、今、この瞬間、生きています。
クロロの兄貴は、残念ながら星になりました。
そらさんは、新しい仕事に向けて、意欲を燃やしています。
生きること、生きているということ、ただ、それだけ、です。
僕は、このサイトのHTML&CSSを可能な限り、シンプルに書いています。引き継いでくださるかたが、もし、現われたら、ドメインの権利を譲ることも視野に入れています。
自分自身に覚悟を決めて、さあ、歩きだそう。
「余命宣告.com」は、まだまだ、走り続けます!!
(2008.9.29 jive宇都宮)